花のいえの歴史ブログ

花のいえの所有者の変遷(江戸時代から今日まで)

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平成25年5月1日(平成27年6月8日一部改訂) 第1号

第1回は、公立学校共済組合嵐山保養所「花のいえ」が、昭和26年(1951)4月にここを所有するまでの変遷を見ていきます。

慶長11年(1606)年に、角倉了以(すみのくらりょうい)が、保津川を開削して、この舟運管理のために、この地に舟番所兼邸宅を設けました。この土地は、現在約5000㎡ありますが、当時は、天龍寺の境内地であったことがわかっています。京都の豪商、角倉了以は、天龍寺からこの土地を借りて、邸を設けたことになります。これは、徳川幕府の命によるものです。具体には、京都所司代の命によってここに建てられたと推測します。その後、徳川家康の命により、慶長12年(1607)年に、富士川を開削。次いで慶長13年(1608)に天竜川も手掛けますが、これは失敗。慶長15年(1610)には、鴨川水道を作り、慶長16年(1611)年には高瀬川の開削に着手し、慶長19年(1614)に完成させます。

その後、角倉了以の長男、素庵(そあん)の時代に、素庵の長男・玄紀(はるのり)が、高瀬川等の権利を家督相続します。この家系が、京角倉家として、諸特権を維持しながら明治を迎えます。

保津川の諸権利は、素庵の二男・厳昭(かねあき)が、家督相続します。ここの家系が嵯峨角倉家として、諸特権を維持しながら明治を迎えます。長男が高瀬川の諸権利を相続したのは、保津川よりも高瀬川のほうが隆盛を極めていたからだと思います。

明治2年(1869)の「御一新」により、保津川の諸権利は、京都府に召し上げられることになります。しかし、嵯峨角倉家は、明治22年(1889)まで、ここを所有します。嵯峨角倉家の最後の当主は、角倉玄遠(すみのくらげんえん、はるとおとも言います。)氏です。

明治22年(1889)に、京都府の第3代目知事北垣国道(きたがきくにみち)氏が、ここを購入します。北垣国道氏は、明治14年(1881)から明治25年(1892)まで京都府知事として在任しますので、まさに現職の知事時代にここを購入されたことになります。知事公館として京都府が購入したのかとも思いましたが、北垣国道氏の残した「塵海(じんかい)」という日記などにによれば、ここは、個人の別邸として使われたと推測されます。北垣国道氏の2大事業は、琵琶湖疏水事業と京都・宮津間の道路築造事業といわれています。北垣国道氏は、大正5年(1916)に亡くなり、息子に相続され、大正6年(1917)に、所有権が移ります。北垣国道氏はどうして嵯峨角倉屋敷を購入することになったのか。嵯峨角倉家を経済的に救済するためか、歴史ある場所を守るためか、今後の調査となります。

大正6年(1917)にここを購入されるのは、生糸商を営まれた実業家で、京都日の出新聞(今の京都新聞の前身)の役員もされた山田茂助(やまだもすけ)氏です。この方から息子の就将氏、お孫さんの進一氏へと家督相続されて、昭和22年(1947)3月に嵯峨の地元の安井善七氏に所有権が移ります。

この安井善七氏が、、昭和22年に購入したのち、いつごろか、料亭「花乃家(はなのや)」を開業されます。その後、営業不振に陥ったのか、4年後の昭和26年(1951)2月頃に、ここが売りに出されたのです。

そして、昭和26年(1951)4月に、土地・建物併せて400万円で、公立学校共済組合が購入します。公立学校共済組合が、購入するのは、商売をするというよりも、当時は結核にり患した組合員が多く、転地療養や治癒後の保養をするための施設が必要であったからです。

昭和26年(1951)5月には、名称も一部変更して「花のいえ」として、再デビューすることになり、今日に至ります。以上が、花のいえの所有者の流れです。