花のいえの歴史ブログ

角倉一族と大坂冬の陣・夏の陣

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今年(平成28年)のNHK大河ドラマは「真田丸」。大坂冬の陣、大坂夏の陣において豊臣方の英雄真田幸村(真田信繁)が登場します。

さて、司馬遼太郎が平成8年2月12日に亡くなって早や20年。司馬遼太郎の代表作の1つに「城塞」があります。「城塞」のストーリーは、老い先の短い徳川家康は、自分の生きているうちに、豊臣氏を滅ぼしたい、そのために大坂城を落城させたいと努力する物語です。慶長19年(1614年)10月に大坂冬の陣が、翌年の慶長20年(1615年)4月には、夏の陣が起こります。「城塞」は小説ですが、司馬遼太郎はウソは書かないという前提です。研究成果の報告ではないことをお許し願います。

(1)伊賀国

角倉了以は、保津川、富士川、天竜川、高瀬川を開削したことは、多くの書物にも出てきます。ところが、たまに「伊賀川」が出てくるのです。伊賀といえば、伊賀上野のこと。名阪道から伊賀上野城が見えます。角倉了以が伊賀とどうつながるのか疑問でした。

慶長19年(1614年)7月12日に、角倉了以が亡くなったときに、了以を評した記事が「当代記」に出てきます。その内容は「この者ただものにあらず。方々岩石を切抜き、丹波国、伊賀国、甲斐にも川舟を入れ、兵糧、薪、運送し」とあります。丹波国が、保津川の開削を指し、甲斐国が富士川の開削を指します。そして、伊賀国が登場します。木津川につながる名張川が伊賀川と称することもあるそうです。

この疑問を「城塞」が解いてくれました。小説の内容はこうです。関ヶ原のあと家康は大坂攻めを構想。家康は藤堂高虎に伊予と伊賀一国を与えます。家康は高虎に「伊賀の城は、できるだけ大きく堅固に築け。木津川の渓流に軍船を浮かべさえすれば、そのまま山々の間を縫って、大坂天満に直行することができる。城攻めの大軍を魔法のように短い時間で輸送することができる。伊賀城が戦略的意味を持っているとは、大坂城の連中も気づけまい。このように書かれています。そうだとすれば、角倉一族が、家康に命じられて、木津川、名張川の開削をおこなったということも信憑性が出てきます。そういうこともあったのかもしれないと思うのです。また、「城塞」では、家康は、角倉一族に対して、大坂城本丸の下までトンネルを掘れ、地盤が固くて掘り進むことができなくても、豊臣方は動揺するとしてトンネルを掘らせる場面が出てきます。「城塞」を通じて角倉一族が登場するのは、この場面だけです。

(2)大坂攻めに角倉一族はどういうことをしたのか

大坂冬の陣が勃発した慶長19年(1614年)10月には、既に角倉了以は、3か月前に亡くなっていますので、その息子、角倉素庵の時代に入っています。ここは、森洋久「角倉一族とその時代」(思文閣出版、2015)を紹介します。慶長19年(1614年)、角倉素庵は、大坂の陣において、徳川方の伏見城へ兵糧米3万石を取り寄せ、その後、米等の戦陣道具を大坂まで運搬。淀川を摂津長柄で堰き止め、神崎川に水を落とし、大坂川の流れを断つ、元和元年に普請完了。

元和元年(1615年)、江州支配、京都河原町支配、過書船支配仰せつけられる。大坂の陣における恩賞として、知行地は与えられなかったが、賀茂川、嵯峨川高瀬舟を永代家領として、安堵される。木曽山年貢木支配仰せつけられる、とあります。

大坂の陣において、角倉一族は徳川方として戦ってきたのです。大坂夏の陣の12年後の寛永4年(1627年)、素庵の次男、厳昭(げんしょう、かねあきともいう)は、本家(京角倉家)から嵯峨川高瀬舟を譲り受け、嵯峨角倉家を興します。また、年月日未詳ですが、徳川秀忠、家光にも拝謁し、信濃木曽山年貢支配も命じられています。この嵯峨屋敷の末端に花のいえが存在します。この論文の著者は、これまで、角倉了以は、京都の豪商として認識されてきたが、角倉家は、徳川幕府の幕臣であり、旗本として位置づけられる。これまでの評価を見直さなければならないとしています。

明治2年3月24日の御一新の通知で、角倉一族は、これまで維持してきた特権を京都府に召し上げられます。保津川や高瀬川を開削し、京都の振興発展の功労者であ角倉家に対して、明治新政府は、どうしてこんなひどいことをするのかとずーと疑問でした。しかし、徳川幕府の幕臣となれば、それも頷くことができます。新政府は、旧幕府につながる勢力をたたきつぶすという方針で行動したとすれば納得できるのです。(了)