平成28年(2016)10月11日に、この歴史ブログを見ていただいたお客様から、嵯峨野の常寂光寺や二尊院など角倉了以にかかわる寺院などをもっと紹介すべきではないかとのご意見をいただきました。
角倉了以とその一族の残された遺産は京都にはたくさんありますが、今回は、大悲閣千光寺、常寂光寺、二尊院、瑞泉寺を紹介します。
【大悲閣千光寺】
花のいえからは歩いて約30分でいけます。
渡月橋を渡り、大堰川(国土地理院の地図では桂川)右岸の遊歩道を約15分上流へ歩き、さらにつづら折りの石段を登ったところに大悲閣千光寺があります。
芭蕉も「花の山 二丁登れば大悲閣」と詠みました。
大堰川開削工事で命を失った人々の霊を慰めるため、もとは嵯峨中院にあって荒廃していた千光寺を慶長19年(1614)、了以が現在の場所に移してそこに隠居しました。本尊は千手観音菩薩で、本尊の脇には法被姿で石割斧をもち、片膝を立てて座っている了以の像があります。この了以像を摸刻した像を花のいえのごてんの間に祀らせていただいておりました。この寺からは京都市内が一望できますし、眼下には、保津川を下る舟を見下ろすことができます。絶景です。
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【常寂光寺】
花のいえからは歩いて約20分でいけます。境内には、保津川の舟運に使われた高瀬舟が展示されています。
仁王門から本堂へ続く石段付近は嵯峨随一の紅葉名所。小倉山の中腹に堂宇が点在し、見下ろす風景もすてき。藤原定家の時雨亭跡ともいわれる(以上「嵐電エリアマップ」から抜粋)。
文禄4年(1595)豊臣秀吉が方広寺大仏殿千僧供養を行った際に、本圀寺の日禛(にっしん)上人は、この出仕に応じず、本圀寺を出て、ここに隠棲しました。このときに角倉一族が支援をします。
了以が保津川を開削したときに、日禛上人は、そのお礼の意味をも込めて、故郷備前国(岡山県)から水夫や船頭、船大工を呼び寄せ、了以の舟運事業を支援します。岡山から呼び寄せられた水夫などの一団は村上水軍の末裔といわれています。舟運事業の初めの頃は、舟運の行われる冬の時期に岡山から嵯峨に来て、終われば、国に戻っていましたが、岡山の檀家寺がなくなると一族挙げて嵯峨に移り住みます。彼らの住んだエリアが花のいえの北側にあり、江戸時代は木屋町(こやちょう)と呼ばれていました。
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【二尊院】
二尊院は、常寂光寺の北側にありますので、花のいえからは歩いて約20分でいけます。
小倉山の東麓に総門を構える天台宗の古刹。二尊院は名のとおり釈迦如来と阿弥陀如来の2尊を祀る。総門から本堂への参道は紅葉の馬場と呼ばれる紅葉名所(以上「嵐電エリアマップ」から抜粋)。
二尊院は角倉一族の菩提寺で、了以、素庵のお墓があります。素庵は亡くなると化野(あだしの)念仏寺に埋葬されましたが、後に二尊院の一族のお墓に埋葬されました。
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【瑞泉寺】
瑞泉寺は、三条大橋の西詰にあります。瑞泉寺の西側に高瀬川が流れています。平成28年秋の京都非公開文化財特別公開の寺院として公開されました(平成28年10月28日から11月7日)。了以、素庵父子の木造が祀られています。以下は、「河原町史跡スポット、河原町商店街振興組合発行」のパンフレットから抜粋しました。
慶長16年(1611)高瀬川を開削していた了以によって「(豊臣)秀次悪逆塚」と刻まれた石塚が偶然発見されました。瑞泉寺は、了以が幕府に願い出て、豊臣秀次公とその一族の御霊を弔うために建立した浄土宗西山禅林寺派の寺。
石塚は「畜生塚」とも呼ばれていた。境内には今も香の煙が絶えない。
<どんな話?>
世継ぎが出来ない豊臣秀吉は姉・ともの子秀次(ひでつぐ)を養子にし、関白にしたが側室淀殿との間に我が子秀頼が生まれると次第に煩わしい存在となった。文禄4年(1595)秀吉は、秀次を聚楽第から伏見城へ呼び寄せ、高野山に追放し、自害させた。三条河原に秀次の首級をさらし、大衆の面前で秀次の正室、側室そして幼児39人を処刑した。