花のいえの歴史ブログ

三代目京都府知事北垣国道が花のいえを購入した理由

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三代目京都府知事北垣国道が花のいえを購入した理由  平成30年3月25日

 

現職の京都府知事北垣国道が、明治22年に嵯峨角倉家の最後の当主角倉玄遠(はるとう。角倉伊織ともいう)から花のいえを購入した理由はなぞでした。

 

北垣国道から「ここに住む勇気があるならば貸してやる」と言われて「なにを、ならば住んでやる」と住むことになった京都府葛野(かどの)郡長の有吉三七。今回紹介する有吉徹氏は、有吉三七が高祖父に当ります。5代目の子孫ということになります。

 

有吉三七の息子、有吉忠一は、父三七をしのんで「追懐録」を残しています。今回改めて有吉徹氏に花のいえを購入した記述の部分を調べていただき、平成30年3月に、その情報を提供いただきました。

 

以下は、漢文で書かれた追懐録の訳文です。

 

「北垣翁の別邸は、角倉了以が居住していた所で、その子孫が代々住んでいた。西には嵐山が見え、桂川に臨んでおり、南には遠く河和二州の連峰を望める景勝の地であったが、近時は経済的に貧窮し損傷が激しく、人々は怪鬼邸と呼んでいた。北垣翁は了以の偉業を考え、又その庭園に置かれていた桃山銅灯籠が外人に売られそうな事を聞き、深く嘆き遂にこれを購入した」とあります。

 

そして有吉徹氏は、「この内容から北垣国道は住居として購入したのではなく桃山銅灯籠の海外流出を防ぐために屋敷ごと買い取ったのではないかと私は考えます」と言っておられます。

 

ここに記載されている桃山銅灯籠は「角倉灯籠」と呼ばれるもので、私が得ている情報では、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に加藤清正が持ち帰ったものであること、現在、嵐山のM邸宅にあること。M氏は平成26年の了以400回忌に際して、私財を投じて、大悲閣千光寺の客殿を再建された方とのことです。

 

「怪鬼邸」と呼ばれて誰も住んでいなかったこともわかります。嵯峨角倉家の最後の当主は、京都市内に住居を構えていましたが、それは商売をするために家で、この花のいえに住んでいたのかどうかは、確定できていませんでしたが、もう人は住めるような状態ではなかったことが読み取れます。

 

だからこそ有吉三七が住み始めた頃、三七の妻歌子は苦労をして毎日一室ずつ整備していったことにつながっていきます。

 

 

(次回へつづく)