花のいえの歴史ブログ

花のいえの所有者の変遷(一時荒れていた花のいえの屋敷)

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平成25年5月3日(平成27年6月11日一部改訂)  第 3号

花のいえの所有者の流れの中で、明治29年(1896)から大正5年(1916)までの約21年間、有吉三七氏が、ここにお住まいをされていたことは、第2号でご報告をいたしました。

今回は、この間の様子をご紹介したいと思います。高祖父、曾祖父の住んだ花のいえを見にこられた有吉徹様との何回かの手紙のやり取りの中で、次のような資料を送っていただきました。有吉徹様の祖父は、有吉義弥(ありよしよしや)という人で、日本郵船社長や会頭をつとめられた人です。

有吉義弥氏の記録を記載した有吉義弥『海運50年』(1975 日本海事新聞社)に、有吉三七氏や、奥様が出てきます。有吉義弥様のおじい様とおばあ様の話になります。

北垣国道氏から、お化け屋敷でも住む気があるならタダで貸してやるといわれ、借りた。長州征伐に出征して、負傷した傷痍軍人で、大変気の強い人だったので、お化け屋敷のチャレンジを受けてたったとのこと。困ったのはおばあさんで、邸内は荒れ放題。座敷の下から竹の子が畳を突き抜けて天井まで届いているし、ヘビやネズミが縁側を駆け回るし、庭には、キツネやタヌキが出た。それを日時をかけて一部屋ずつ整理していく苦労は大変だったよと、よく話して聞かせてくれました、とあります。また、盆や正月には、私には必ず帰る嵯峨の屋敷がありました、とも書いておられます。

この様子から、北垣国道氏は、別宅として購入したものの、しばらくは、誰も住まない期間があったということがわかります。この期間は、今、私どもが、中庭園と呼んでおります小堀遠州作庭の枯山水の庭園は誰も手入れをするものがなく、荒れたであろうと推測します。