北垣国道と有吉三七の出会い 平成30年3月28日
北垣国道は、明治22年から大正6年までの花のいえの所有者。有吉三七は、明治29年から大正6年まで、北垣国道から花のいえを借りて住んでおられた人です。
尊王攘夷を敵味方で戦った北垣国道と有吉三七の2人は、生涯の友として一生を送ります。金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の塔頭栄摂院(えいしょういん)に2人のお墓が並んでいます。有吉三七のとなりには、息子有吉忠一の墓もあります。
前回、有吉徹氏から有吉三七の息子有吉忠一が残した「追懐録」を調べていただいたことを報告いたしました。
もう1つの疑問は、いつの頃に有吉三七と北垣国道の出会いがあったのかという疑問でした。
追懐録には「明治8年北垣国道が元老院書記官に任ぜられ、建白課長となり、書面で、有吉三七を招いた」という内容が最初にでてきました。有吉徹氏は、この明治8年が最初に出てくる記述で、それ以前に何等かの出会いが無ければ北垣国道が書面で招くことはないと思われる、とコメントされておられます。
最初の出会いがいつ頃に遡るのかは、なおわかりませんが、有吉徹氏の報告で、少なくとも明治8年以前に出会いがあったことは、確かになりました。【了】