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花のいえ”金屏風”の由縁

支配人便り

お正月だけ玄関ロビー立て掛ける左右一対の金屏風。

杉板に山々や松、小川が描かれ、背景には金粉がちりばめられています。

また、額縁は太く、黒の漆塗に金模様があしらわれています。

 

そして、左右それぞれの下には、署名「八十五翁耕冲」とあり、

さらに、右側には「明治癸卯春日」と制作時期が加えられています。

 

【金屏風】

 

  

 

 

【右側の署名と制作年】                     【左側の署名】

   

 

 

調べたところ、幕末から明治にかけて活躍した円山派画家「上田耕冲」(1819年~1911年)の作ではないかと思われます。

耕冲は京都で生まれ、幼少時には父である上田耕夫に、大阪に定住の後は長山孔寅に師事して画風を学び、1884年(明治17年)に設立された私立浪華画学校で日本画の教授として後進を指導したとのことです。

代表作、大阪天満宮の襖絵「鷹狩と雪中老松」は90歳を超えてから描いたとされます。

 

さて当館の屏風ですが、これに記されている「明治癸卯」の「癸卯」は干支「みずのとう」で1903年(明治36年)のこと。この時、耕冲は85歳。屏風に記されている「八十五翁」と一致します。

また、インターネットで上田耕冲の作品群をみると、その署名は「〇〇翁耕冲」となってるものが多いようです。(〇〇には年齢が書かれています)

 

次に落款ですが、画材が杉板であることもあって不鮮明で印影が薄いため、十分に読み取れません。

 

【右側の落款】                  【左側の落款】

  

 

 

この金屏風は、1951年(昭和26年)当館開業時から所有していると言い伝えられており、その証拠に、裏面に貼られている当館の備品番号票にも1番が記されています。

 

 

 

それでは、どういう経緯でこの金屏風が当館に引き継がれてきたのでしょうか。

 

当館は、江戸初期に活躍した京都の豪商「角倉了以」のいくつかある邸宅跡の一つです。

 

江戸時代から明治にかけては、角倉家が代々引き継いできましたが、1889年(明治22年)に当時の京都府知事「北垣国道」が購入し、その後1896年(明治29年)に葛野(かどの)郡長に就任した「有吉三七」がここに住むことになります。そして1916年(大正5年)まで居住したと言われています。

 

そうすると、この金屏風が描かれたであろう1903年(明治36年)は、「有吉三吉」が住んでいた時期と重なります。20年もの長きにわたり住んでいたのですから、その間に、老齢にして活躍していた当時の上田耕冲作の金屏風を手に入れたと考えられます。

 

もしかしたら、有吉三吉が自分の住まいのために上田耕冲に金屏風の制作を依頼したと考えても無理ではありません。

 

当館では、円山応挙の弟子で江戸時代中期に活躍した「長澤蘆雪(ながさわろせつ)」(1754年~1799年)の作、襖絵「紙本墨画張旭揮毫図」が倉庫で眠っていたところ、平成20年に発見、蘆雪の真作であると鑑定され、平成21年に京都市有形文化財に指定されています。(現在は、京都国立博物館に寄託)

 

また蘆雪の襖絵のほか、狩野派の杉戸絵、千利休の釜師「辻与次郎」作の雪見灯籠などの文化財があります。こうした価値ある文化財を引き継いできた”花のいえ”の歴史を考えると、上田耕冲の金屏風もその一つと言っても過言ではないと思っています。

 

支配人 敬白