平成25年5月2日(平成27年6月11日一部改訂) 第2号
第1号で、花のいえの所有者の流れを報告いたしました。ところが、平成24年(2012)6月に、「高祖父、曾祖父の住んだという花のいえを見にきた。」という東京からのお客様がお来しになられました。この方の実名を挙げてもいいと思いますので、実名で記載いたします。
この方は有吉徹(ありよしとおる)様とおっしゃる方で、「有吉」という人は、所有者の流れの中で、出てこなかった人ですので、びっくりしました。有吉徹様からみますと、父、祖父、曾祖父、高祖父となりますので、まさに、3代、4代前の先祖様の話になります。有吉徹様に手紙を出し、どんな些細なことでも教えていただきたいとお願いをいたしました。
それから数か月が経って、有吉徹様からではなく横浜開港資料館の学芸員さんから返事が届きました。この返事によって、私の疑問が解けたのでした。有吉徹様が横浜開港資料館に転送してくれたのです。
北垣国道氏とともに尊王攘夷を戦った高祖父に当たる有吉三七(ありよしさんしち)氏は、北垣国道京都府知事の時代に京都府職員となり、明治29年(1896)11月に、京都府葛野郡(かどのぐん)の郡長に就任します。
葛野郡とは、この花のいえを含む京都府の郡のことです。この時に、所有者の北垣国道氏から「お化け屋敷に住む勇気があるならば、タダで貸してやる。」と言われ、有吉三七氏は、「なにを。ならば住んでやる。」ということで、住むことになります。
有吉三七氏は、明治39年(1906)に葛野郡長を辞任しますが、その後も、花のいえにお住まいされます。大正5年(1916)に、北垣国道氏が、亡くなった年に、曾祖父に当たる息子忠一氏の住む東京に移られます。そして、翌年の大正6年(1917)に亡くなられます。
この息子、有吉忠一氏の残された記録によって、有吉三七氏のことがわかります。有吉忠一氏は、千葉県知事、宮崎県知事、神奈川県知事、兵庫県知事、そして、横浜市長、横浜商工会議所会頭をなどをつとめた人です。最後に横浜市長、横浜商工会議所会頭を務められた関係で、有吉忠一関係文書が、横浜開港資料館に預けられていたのです。このいただいた資料によって、間違いなく有吉三七氏が、花のいえにお住まいになられていたことがわかったのです。
北垣国道氏も有吉三七氏もともに尊王攘夷を戦われた人ですが、北垣国道氏は、生野義挙にも参加したバリバリの尊皇派ですが、有吉三七氏は宮津藩に仕える武士で幕府方、2人は敵味方の関係にありました。「なにを、ならば住んでやる。」といった会話も、なるほどとうなずけます。
北垣国道氏が、明治12年(1879)に、高知県令に就任するに際して、有吉三七氏を同行させますが、それ以前のどこで、2人のつながりができたのかは、今後の調査になります。
北垣国道氏のお墓は金戒光明寺の塔頭栄摂院(えいしょういん)にありますが、有吉三七氏のお墓も同じ場所にあります。2人のとても深いつながりを思わずにはおれません。